民主主義の弊害

「就職戦線の一安定志向」が意味するもの

近年、大学生に就職先の希望を尋ねると、かなり多くの学生が公務員になることを希望しています。重ねてその理由を尋ねるとほとんどの学生が、雇用が安定していること、休日が多いこと、老後の手当てが充実していることを挙げます。

よくいえば彼らは堅実なのでしょうが、少し不安になるというのが正直なところです。

何かをなしたくて職業を求めるのではなく、安定した収入と休息、老後の保障を求めるというのでは、本末転倒しているのではないか、というのが私の考えです。しかし、多くの学生は、仕事に生きがいを求めるという考え方自体に拒絶反応を示します。仕事はそれなりにこなして、プライベートを充実させたいというのが彼らの目的のようです。

こうした生活の安定を志向する人々にとって理想ともいえるのがいわゆる「福祉国家」です。そこでは、税率が高めに設定される代わりに、老後の保障、雇用の保障などあらゆる面で国家が手厚い保障で国民生活を保護してくれます。国家に保護された状態の中で、国民一人一人がささやかな幸福を追求していくというのが、「福祉国家」の主張です。

こうしたぬるま湯のような状態を蛇蝸(へびかたつむり)のごとく忌(い)み嫌ったのがドイツの哲学者フリードリッヒーニーチェでした。ニーチェはこうしたマイホーム主義的、小市民的生き方に強烈な「否」を突きつけたのです。

ニーチェは、福祉国家の中で安住するような人々を「最後の人間」と名づけ、痛烈な批判を加えました。代表的著作の一つである『ツァラトゥストラ』において、ニーチェはもっとも軽蔑(けいべつ)すべき人間として「最後の人間」を挙げ、批判しました。

牧人のいない一個の畜群! 誰もが同じものを欲し、誰もが同じである。別様に感じる者は、みずから進んで精神病院に入るのだ。

実に辛辣(しんらつ)な批判といってよいでしょうが、福祉国家や大衆社会の真理の一面を端的に指摘したものです。福祉国家や大衆社会においては、平等こそが絶対的価値であるとされ、ほかから抜きんでようとする存在は、煙たがられ、時として傷つけられます。確かにそこに存在する人々の価値観は異なるものの、他者の考えを否定しようとまではしません。それほど自らの価値観に真剣ではないからです。

コーヒーが好きか、紅茶が好きなのかといった次元の価値観の相違であれば、多少の口論はするでしょうが、最後にはお互いにっこりとほほ笑みながら、互いの価値観を認め合うでしょう。こうした平等な人々同士からうらなる微温的(びおんてき)な空間にニーチェは耐えきれませんでした。

確かに一人一人の「生」は保障されているでしょうが、そうした「生」そのものにいかなる意味があり、価値があるというのでしょうか。ただ飼い馴らされた羊のごとく管理された状態の中で生き、死んでいくだけの人生に何の意味を見いだすことができるのか、とニーチェは激しく問いかけるのです。たった一人となる孤独を恐れずに、それでも猛々(たけだけ)しく高みを目指し続ける人間こそがニーチェの憧れであり、目的とする「超人」であったのです。

プラトンのことば
「自然に反したものはどんなものでも苦痛を与えられるが、老いとともに終局に向かうものは、おおよそ死の中でももっとも苦痛の少ないもの」